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件名:「台湾の声」【台湾紀行】蘇花古道−1 

【台湾紀行】蘇花古道−1
                西豊穣

蘇花古道は文字通り宜蘭県蘇澳と花蓮県花蓮との間を結ぶもので、現在の蘇
花公路、清水断崖を含む台湾の海岸線美を最も具有する自動車道、省道9号
線の前身と長い間考えられていたものです。

蘇花古道は、清代開鑿まで溯ることが出来ますが、清代に開鑿された道路そ
のものは既に消滅していますし、日本時代に開鑿したものも歩けるのは僅か
ですので、今回は、蘇花古道の歴史を概観した後は、現在の蘇花公路に沿っ
て誰でも自動車、バス、汽車等で簡便に立ち寄れ、加えて余り紹介される機
会の無い古道にちなんだ景点を、蘇澳から花蓮に南下する順に選んで紹介し
ます。

<後山北路と称されていた蘇花古道>
牡丹社事件(1871年、明治4年)に続く台湾出兵(征台の役、1874年、明治6
年)を契機に、日本の台湾領有の意図を察した清朝は、沈葆禎を台湾経営・
海防担当の欽差大臣に任命、それまで「化外之地」、「無主之地」(皇帝の
権威の及ばない地の意)とされていた台湾の積極的な開発・経営へと転換し
ていきます。

沈葆禎は福建省出身、清朝末期の洋務運動を担った中心人物で、妻は、アヘ
ン没収・焼却・禁輸を推し進めイギリスとのアヘン戦争の端緒を開くことに
なった林則徐の娘です。沈葆禎は台湾西海岸側の行政区画を整備すると同時
に、「開山撫蕃」(山を開き“蕃人”を慰撫する)の名のもとに、当時「後
山」〔アウソア〕と呼ばれていた東海岸の開発に着手、北部(蘇花古道)、
中部(八通関古道:本メルマガで紹介済み)、南部(崑崙拗古道:本メルマ
ガで紹介済み)の各々に中央山脈西側から東海岸に達する道路を開鑿しま
す。蘇花古道はこの為「後山北路」と称されていました。

沈葆禎はこの三本の開山撫蕃道の開鑿に各々異なる人物を任に当たらせます
が、北路を担当したのは羅大春提督です。実際は花蓮より更に南下、現在の
花蓮県瑞穂辺りまで開鑿されたようですが、現在、蘇花古道と呼ぶ場合、通
常は蘇澳−花蓮間と説明されているのは、現存する清代の開鑿碑が花蓮まで
の開鑿をまず目標にしていたことを示していること、加えて、その後の日本
時代の同地域の開発を経て現在の蘇花公路に至る歴史を説明するのに蘇澳−
花蓮で区切った方が都合がいいからだと考えられます。

因みに、「後山」は中央山脈東側を指しこの呼称は今でも目にすることがあ
りますが、これに対し当時は台湾を大きく二つに区分する呼称として「前
山」も用いられていました。中央山脈西側の未開発地域という意味です。

<後山北路=蘇花公路?>
沈葆禎の台湾赴任が1874年、羅大春も同年台湾着、開鑿が開始され、翌年
1875年には現在の蘇澳−瑞穂間約170キロが完成しますが、数年後には全路
廃棄されてしまいます。

日本の台湾領有が開始されるのが1895年(明治28年)、蘇澳−花蓮間の開発
・経営が本格化するのは第五代台湾総督佐久間左馬太の就任(1906年、明治
39年)以降ですから、その間約三十年の隔たりがあり、北回帰線が走る台湾
の草木の成長の勢いを考えたら、後山北路は殆ど消滅していたはずです。

従来は、羅大春開鑿の北路→日本時代の臨海自動車道→現在の蘇花公路とい
う具合に歴史とルートを重ね合わせ、清代開鑿の北路が現在の蘇花公路の前
身と長い間漠然と考えられてきました。今でも台湾ではこの古道の一般向け
の紹介の殆どがそう説明していますが、最近の研究では、北路と日本時代の
臨海道との間の関連性は無かった、即ち、蘇花公路の前身は後山北路ではな
い、という結論になっています。

しかしながら、私の今回の寄稿では、戦後に現在の蘇花公路が出来上がる以
前、蘇澳−花蓮間に開鑿された道路はすべて広義の古道と捉えるという立場
に立って紹介を進めます。

<清代開鑿から現在の蘇花公路まで>
清代に開鑿した部分は消滅していると書きましたが、その跡は、多数の駐屯
地跡(営盤)、開鑿記念碑、清軍墓地という形で残っており、実際今でも観
察することは可能です。

営盤は既に宜蘭市を過ぎた辺りから散在しており、省道9号線から然程離れ
ていない場所に存在しているものは出来るだけ見てみましたが、史蹟に指定
されたものはなく、運が良ければ住居や塀の一部になっているか、廟の下敷
きになっているか、そうでなければ単なる石積みの残骸として野晒しになっ
ているだけですのでここでは紹介の労は取りません。

<日本時代>
現在の蘇花公路の前身となる日本時代に建設された臨海道(自動車道)は当
時、「世界で最も危険な道路」と喧伝されていたそうですが、総督府が東台
湾の開発に本格的に乗り出した時期からすぐに計画、建設が始まったわけで
はありません。自動車道である臨海道は日本時代の最終形態で、それ以前に
三段階がありました。

即ち、蘇澳から南に隘勇線(原住民族に対する包囲網・隔離線)を伸ばすべ
く、蘇澳−南澳(当時は大南澳)間で隘勇線を前進させていきます。隘勇線
を前進させるとは、山側へ原住民を強制的に押し上げ包囲・隔離させると云
うのが本来の意味のようですが、まず蘇澳−南澳間の海岸線に約40キロの道
路を建設します。これが日本時代の蘇花古道の始まりです。

この後、第二段階として、花蓮の北にあるタッキリ渓(現代表記:立霧渓)
の河口南岸、現在のタロコ国家公園の入口に当る新城まで理蕃道路を通し、
駐在所を配置していきます。

1914年(大正3年)の“タロコ蕃(タッキリ渓谷沿い、現在のタロコ国家公
園東段のタイヤル族群)討伐”の完了が、この沿岸原住民警備道を完成させ
ることになります。つまり、総督府の東台湾開発・経営上、タロコ蕃を帰順
させることが最大の課題だったということです。

蘇澳−花蓮沿岸の原住民の帰順が安定してくると、第三段階として、一般民
を対象とした徒歩道の開鑿を開始します。これが東海徒歩道と言われるもの
で、1925年(大正14年)、9年近い年月を掛けて完成させます。最後が、こ
の徒歩道の自動車道化で、1927年(昭和2年)着工、1932年(昭和7年)に完
工させました。

<戦後から現在>
戦後はこの臨海道の整備、拡張が継続され現在に到るわけですが、当時の臨
海道と現在の蘇花公路との大きな違いは、多数のトンネルで山側に道路を寄
せて安全性を高めた点と、最新の工事では蘇花間にある三本の大河(南澳
渓、大濁水渓、タッキリ渓)で最南に位置するタッキリ渓を渡る際、上流側
に迂回せずに海岸に近い場所に架橋(太魯閣大橋、2002年完工)し河口を一
気に渡り切るようになった点です。

加えて、蘇澳−花蓮間の鉄道、北廻鉄路が開通したのが、1980年。東澳以南
はほぼ蘇花公路と平行して敷設されました。

更に、「台湾の誇り」とされ、15年の工期を経て昨年開通した自動車用トン
ネルとしては東アジア最長(但し、開通時のみ。現時点では第二位、全世界
では第六位、全長約13キロ)の雪山トンネルを経由し国道5号線(通称「北
宜高速公路」、正式名称「蒋渭水高速公路」)が蘇澳まで延びてきて、特に
台北方面から蘇澳公路へのアクセスが唖然とするぐらい便利になりました。

加えて、この高速道路を、花蓮、台東まで伸ばす計画が控えており蘇花古道
は大きく生まれ変わろうとしています。嘗ては後山と呼ばれ未開地の代名詞
だった東台湾の今後の展望が、国道5号線経由で実際蘇澳まで走ってみると
大きく拓けていくであろうことを実感できます。尚、蘇花高速道路建設計画
には自然保護の観点から既に反対運動が起こっています。

<古道の起点・蘇澳の現在>
蘇花古道沿いの景点を眺めていく前に、古道の起点である蘇澳に関して概観
します。というのは、古道の終点である花蓮について紹介される機会が圧倒
的に多いのではないかと考えるからです。とはいっても、最近では日本人の
観光客でも蘇澳と言えば、冷泉、ラムネ、下駄等をすぐに連想される方も多
くなってきたのではないかと思います。又、日本時代の遺跡として現在は砲
台山(砲台自体は清仏戦争時、清軍によって築かれたもの)と呼ばれている
金毘羅神社跡もよく紹介されています。

蘇澳の中心は蘇澳湾に面しています。実際は、三澳と呼ばれる北方澳、蘇
澳、南方澳が蘇澳湾を取り囲んでいます。蘇澳湾は漁港、商業港、軍港を併
せ持つ総合港湾で、商業港としての蘇澳港は基隆港の補助港として機能して
います。1970年代に台湾政府は「十大建設」を指定、工業化の為のインフラ
整備を目指しましたが、蘇澳港の拡張と北廻鉄路の敷設はこの十大建設の中
に含まれていました。

蘇澳港に隣接する南方澳港は日本時代は当初商業港として開発される予定で
いましたが、それが花蓮港に変更された為、漁港として開発されたという経
緯があります。現在では、屏東県東港、台東県成功港と並ぶ台湾三大漁港
(或いは、三大遠洋漁業基地)の一つだそうです。蘇花公路は蘇澳の市街地
を出るとすぐに登りに掛かりますが、一旦坂を登り切った南方澳の上部から
眺める南方澳の独特の地形、港湾構造、船舶、町並み、蘇澳湾を取り巻く山
と海、更に沖合いの亀山島の取り合わせは、天気さえよければ、現在の蘇花
古道上の白眉です。

内陸側に目を転じると、蘇澳はセメントの町でもあります。蘇澳駅から台湾
水泥(台湾セメント)の巨大な蘇澳工場への引き込み線があります。台湾の
現在の台湾セメントの前身は殆どが浅野セメントですが、この蘇澳工場は台
湾化成工業株式会社が前身です。蘇花公路を南下すると各所でセメント工
場、セメントの原料となる石灰石の採掘場が目に付きます。実際、蘇澳鎮は
鎮、郷単位では(「鎮」「郷」は台湾の行政区分、日本の郡あたりに相当)
は台湾最大のセメント工業基地だそうです。

今回は蘇花古道の概観を紹介しましたので、次回は古道上の各景点を特に古
道の観点から北側から順次紹介します。


(注1)本文中の「省道」は「台湾省道」の略で、実質上は日本の「国道」
に相当します。但し、台湾政府交通部はまだこの呼称を継続使用しています
ので、それに従いました。尚、現在の台湾で「国道」とは「高速公路」、即
ち高速道路に対する呼称です。

(注2)本文中のカタカナ表記された地名(タイヤル語の日本語音訳)は、
日本時代に出版された刊行物(地図、パンフレット等)上の一般的な表記に
従いました。

(注3)日本時代、「高砂族」と称されていた原住民族は戦後は「高山族」
等と呼ばれ、日本時代の分類に従い、タイヤル、サイシャット、ブヌン、ツ
ウオ、ルカイ、パイワン、プユマ、アミ、ヤミ(タオ)の「九族」が台湾政
府によって承認されてきました。この区分は今でも台湾では一般的に広く用
いられており、私の記事の中でもこの区分に従っています。しかしながら、
2000年以降、台湾原住民族の民族意識と地位向上の要求の高まりを背景に、
サオ、カヴァラン、タロコ、サキザヤの四族が新たに台湾政府(正式には行
政院原住民族委員会)によって承認され、現在は十三族。タロコ族は従来は
タイヤル族に属すると考えられてきた為、本稿の中でもタイヤル族の一つと
いう扱いになっており、日本時代の表記に従った「タロコ蕃」とか、タイヤ
ル族の中の一群という意味で「タイヤル族群」という表記にしています。


西豊穣 ブログ「台湾古道〜台湾の原風景を求めて」
http://taiwan-kodou.seesaa.net

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『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html

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