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件名:「台湾の声」【台湾紀行】恒春卑南古道(阿朗伊古道)−2

【台湾紀行】恒春卑南古道(阿朗伊古道)−2

              西 豊穣

<墾丁国家公園と恒春卑南古道>

墾丁国家公園は恐らく台湾で最も人気のある国立公園で、読者の中にも足を
延ばされた方は多いのではないかと思います。1984年に台湾の国立公園第一
号として指定されました。

日本時代には既に国立公園設立の準備は出来ており、大屯山(現在の陽明山
国家公園)、大タロコ(同雪覇国家公園)、新高山・阿里山(同玉山国家公
園)の三箇所が最初の指定を受けることが決まっていましたが、太平洋戦争
で頓挫したことを考えれば、戦後の国民党政府の国立公園設立は非常に遅
かったことになります。

日本時代はこの三箇所の国立公園予定地に加え、台湾八景を指定、これらが
当時の観光行政に於ける基本資源だったことが窺えます。台湾本島最南端、
即ち墾丁国家公園の最南端の鵝鑾鼻(ガランピ)は台湾八景のうちの一つで
した。

墾丁国家公園は省道26号線を境に、西側は台湾海峡沿いの海岸線、東側は県
道200号線、即ち恒春卑南古道の南側全部を含む範囲で、大部分が満州郷と
恒春鎮で占められています。

墾丁国家公園を含む恒春半島南部は、牡丹社事件を契機に台湾近代の幕開け
となった舞台ですので日本時代ゆかりの史蹟が豊富な地域です。これらの大
部分の史蹟、又、国立公園内の景勝地は日本でもよく紹介されています。

今回と次回にわたり、恒春卑南古道周辺のよく紹介される史蹟に関しては少
し詳しい紹介を加え、紹介される機会の少ない史蹟、景勝地も併せて選んで
紹介します。


<西郷都督遺績紀念碑>

牡丹社事件に関する古蹟としては、その契機となった、漂流して牡丹社を中
心とするパイワン族に殺害された宮古島住民の墳墓(「大日本琉球藩五十四
名墓」)と石門古戦場記念碑(元々は「西郷都督遺績紀念碑」、今は「抗日
記念碑」に改装)は日本でも台湾でもよく紹介されています。

前者は省道26号線から日本時代から続く四重渓温泉方面の道標に従い県道
199号線に入ってすぐの場所に、後者は四重渓温泉を過ぎ牡丹社に向かって
走るとすぐに見えてくる小山の上に立っています。

記念碑の方は丈が高く目立つし、道標もあり、又、専用駐車場もあり、誰で
も気軽に立ち寄れます。遭難琉球民の墓の方は未だに一切の道標、案内板が
なく、畑の中に文字通りぽつんと立っており、自動車道から然程離れている
わけではありませんが、初めて訪れる人は案内人無しでは辿り着くのが容易
ではないかと思います。

良くも悪くも近代台湾の幕開けとなった事件に関わる事跡だと思うのです
が、何故このような扱いを受けているのかは今でも疑問です。

尚、「西郷都督遺績紀念碑」の傍には別に「征蕃役戦死病歿忠魂碑」も併せ
て建てられたそうですが、とうに廃棄、現在の記念碑とは別な場所に土台だ
けが同じ小山の上に残っていますが、その土台に忠魂碑が載っていたと考え
られます。


<明治七年討蕃軍本営地碑>

もう一つ牡丹社事件に関わる記念碑が、墾丁国家公園内の人気スポットの一
つである国立海洋博物館の敷地内にあります。この台湾でも有数の水族館、
国立公園の台湾海峡側北端、車城郷内の海岸近くにあり、その水族館の駐車
場内に約四十メートル四方の敷地を確保し立つ「明治七年討蕃軍本営地」が
それで、西郷従道中将(当時)が征台の役の際に本営を置いた場所だとされ
ています。

100メートルに満たない亀山という小山の南麓になりますが、実際の西郷軍
の上陸地はこの亀山の北麓にある射寮という小さな村、国立公園の領域内で
すが、観光客の喧騒からは隔絶された海岸です。

私は長い間この碑の存在を知りませんでしたし、日本人を何回もこの水族館
に案内したことのある台湾人の友人も全然その存在に気付かず驚いていまし
た。水族館の建物のすぐ横にあるのです。観光客の目に付きにくいのは水族
館の入り口から離れているからだと思いますが、私が訪れた時も他には誰も
訪れる人はありませんでした。明治7年(1874年)建立後、清軍に依り廃
棄、その後、大正5年(1916年)、昭和12年(1937年)の二回に渡り修復、
再建されたものです。

余談ですが、「西郷都督遺績紀念碑」、「明治七年討蕃軍本営地」、更に、
宜蘭市宜蘭渓河畔に立つ「西郷庁憲徳政碑」(西郷菊次郎)を加え、鹿児島
市出身である私は勝手に台湾西郷家三点セットと呼んでいます。


<満州郷>

ある台湾人に逆に「満州」とはあの以前日本がシナ大陸に作った満州国にゆ
かりがあるのかという質問を受けたことがあります。台湾の同地域に満州と
いう地名を充てたのは確かに日本時代になってからですが(大正9年)、シ
ナに於ける満州という呼称は当時既に使われていたようなので、台湾で満州
の地名を用いた時、当事者は意識していたかもしれません。但し、由来は全
く異なります。

満州は「臭気」を意味するパイワン語「マヌツル」の台湾語音訳「蚊蟀(バ
ンスッ)」が古名、それに近い日本語発音のマンシュウを充てたとされてい
ます。今の満州郷付近はパイワン族にとっては非常に豊かな狩猟区域で、そ
のため食い切れない獲物が野山に放置されその腐敗臭を表現したものと云わ
れています。

事実、今でも満州郷を含む恒春半島には手付かずの原生林が多く残っていま
すが、全体に樹木の丈が低い為、台湾中央部の丈が高く太い原生林とは景観
が異なり、それも恒春半島の魅力の一つだと思います。原生林が多く残った
のは樹木の丈故の経済価値の低さだと想像されます。


<敬字亭>

満州郷内の県道200号線、即ち古道に沿った地域に、二つだけ紹介したい古
蹟があります。一つは、200号線を恒春から入り満州の街が見え出す辺りの
道端に荒れたままに任せた涼亭があり、そこに敬字亭があります。

日本には昔から筆供養の伝統がありますが、敬字亭は謂わば儒教をベースに
した文字供養用の焼却炉であり、書籍を始め文字が書かれたものを燃やすも
ので、高さは様々ですが、満州郷のものはかなり高く五メートルぐらいあり
そうです。敬聖亭とも言われたりしますが、この場合「聖」とは孔子に代表
される儒教の先人達を指します。開山撫蕃期に作られたものは現在国家古蹟
に指定されたものが多いです。

この満州郷の敬字亭のユニークな点は、地元有志の人々の寄付で作られまし
たが、寄付した人々の名前を刻んだ石板が敬字亭前面に敷設されており、且
つ「明治三十七年」(1904年)の銘を持つことです。日本の年号を銘に持つ
敬字亭は私の知る限りこの満州郷のものだけです。

では、儒教の影響を強く受けてきたと云われる日本にも同様のものが恐らく
多数残っているだろうと思い調べてみましたが、敬字亭、敬聖亭でネット検
索して引っ掛かってきたものは長崎市にある黄檗宗の寺、万寿山聖福寺にあ
るもののみ。慶応2年(1886年)に清人によって築造され、何と日本最古の
レンガ建築なのだそうです。結局、儒教とは日本では一般大衆にまで浸透し
ていたとは言い難い証左の一つではないかと思った次第です。


<恒春国語伝習所猪労束分教所之跡碑>

もう一つは、満州の街中を200号線から離れ南東に暫く往くと里徳(旧パイ
ワン族猪労束社:日本時代の発音表記「チジャソワク」)という村があり、
そこに「恒春国語伝習所猪労束分教所之跡」(以前は「恒春郡高砂族教育発
祥之地」と刻まれていたようだ)の碑があります。

こちらは今は涼亭の屋根に守られきちんと保護されおり、前述の敬字亭とは
水田を隔ててお互いに見通せる位置にあります。明治29年(1896年)、台湾
総督府は台湾全土に16箇所の国語伝習所を設置し日本語教育を本格化させま
す。恒春にも今の恒春国民小学校の前身である恒春国語伝習所を設置、猪労
束社にその分教所が作られ、台湾原住民族に対する総督府の西洋式教育の魁
(さきがけ)となりました。この碑の背面には「高砂族教育発祥之地、明治
二十九年九月十日開始、満州公学校前身、昭和十四年三月建立」の銘があり
ます。

この碑の土台に「記念碑建設世話人」、「発起人」の順で複数の日本人の名
前が刻まれた銘板がありますが、世話人筆頭は「警察署長・警部」で、その
次に「巡査部長」「巡査」「技手」と続き、その後地元の発起人が並んでお
り、当時の理蕃政策の性格がよく顕れています。


<恒春城>

恒春の古名は漢字では「瑯[山/喬]」等数種を充てたりしていましたが、こ
れはオランダ人が「Longkiauw」(ロンキャオ)と記していた台湾語音訳だ
とされています。その音訳の語源に関しては色々説はあるようですが、恒春
半島一帯に広く分布していた蘭の一種を意味するパイワン語だとか、その蘭
とは胡蝶蘭だとか、或いは「琉球」(リュウキュウ)からの転だとか。

恒春と呼ばれるようになったのは、牡丹社事件後、清朝が慌ててこの地に恒
春県を設置(1875年、明治7年)、築城を開始してからです(完成は1880
年、明治12年)。恒春の名は年中気候が温暖なことに拠ります。前述の恒春
の古名の由来から胡蝶城と呼ばれることもあるようです。

恒春城は台湾内の古城では最も新しい築城、最も完全な形で保存されている
と云われています。現在国家二級古蹟、東西南北の城門はほぼ完全に修復・
復元され、加えて城壁もかなりの長さで復元されており、且つ然程大きくな
い現在の街がその中にすっぽり納まっていますので、台湾古城の構造、規模
等を理解する為には教科書的な古蹟だと思います。

恒春の街自体は墾丁国家公園には含まれていませんが、公園の入り口という
有利な地理条件にあり、この古城をシンボルとして歴史とモダンさを併せ持
つ観光都市として急速に装いを新たにしつつあります。


<恒春鎮石碑公園>

さて、その街の一角、西門近くの城内に「恒春鎮石碑公園」があり、元々は
別な地にあったのではないかと考えられる日本時代ゆかりの石碑が四基集め
られています。日本時代は恒春公園、近年は猴洞山石碑公園と呼ばれてお
り、改名と同時に整備し直され、ごみごみした城内にしては贅沢な広さの駐
車場が確保されています。

猴洞山は珊瑚礁が隆起した高さ20メートル程の小山で、今では何の変哲もな
い地表の盛り上がりにしか見えないのですが、元々はパイワン族の祭祀場で
あり、開山撫蕃下では恒春八景の一つ、恒春城築城の際、風水上縁起がいい
とされ大事にされた場所です。

四基の碑とは、恒春鎮公所(役場)の説明を基に時代の古いものから並べて
みると、「日軍攻略恒春城記念碑」、「日本統治台湾最南端界碑」、「忠魂
碑」、「兵器整備記念碑」、このうち前者二基は土台だけが残り碑そのもの
は欠損、後者二基は碑としては完全ながら殆どの文字が無残に削り取られ、
特に忠魂碑は碑に不気味な洞(ほら)できているような状態にあります。一
体この公園は何を意図して作られたのか量り兼ねるのですが、日本時代関連
の碑だけを集めてきちんとした説明を加えてあるという意味ではユニークな
公園です。


次回第三回目は恒春についてもう少し説明を加え、更に墾丁国家公園から二
つだけユニークなスポットを選び紹介し、恒春卑南古道に関する記事を終わ
らせることにします。


筆者註:これまでもそうでしたが、本投稿中にも現在の台湾の自動車道を紹
介するのに「省道」という表記を用いています。これは「台湾省」道の略
で、本来は「国道」とすべき所でしょうが、今でも交通部では変更していま
せんのでそのまま「省道」という表記を採用します。因みに、現在交通部が
「国道」と称しているのは、高速道路(「高速公路」)のことです。



西豊穣 ブログ「台湾古道〜台湾の原風景を求めて」
http://taiwan-kodou.seesaa.net


西豊穣 台湾紀行古道シリーズ バックナンバー

2006/09/30 恒春卑南古道(阿朗伊古道)−1
http://www.emaga.com/bn/?2006090110198233009044.3407

2006/07/05 六亀特別警備道付記‐竹子門発電所
http://www.emaga.com/bn/?2006070011116401005020.3407

2006/07/03 六亀特別警備道(扇平古道)
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2006/03/06 浸水営古道
http://www.emaga.com/bn/?2006030022994333010714.3407

2005/12/23 崑崙拗古道
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2005/04/26 八通関古道
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2005/02/25 霞喀羅古道(石鹿古道)
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2005/01/06 能高越嶺古道
http://www.emaga.com/bn/?2005010010046551008909.3407


『台湾の声』 http://www.emaga.com/info/3407.html

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