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件名:「台湾の声」【台湾紀行】崑崙拗古道
【台湾紀行】崑崙拗古道
高雄市在住 西 豊穣
「崑崙拗」は現代地名表記「古樓(楼)」に充たるとされ、今はこのパイワ
ン族の村は高屏平野(高雄-屏東間の中央山脈南部西側に広がる平野で、西
端が高雄市)の東端沿いを走る屏東県道185線(沿山公路)の沿線上、屏東
県来義郷にあります。但し、元々の村落は中央山脈南部の最後の二千メート
ル峰、衣丁山(標高2,068メートル)の西側山間部に在り、日本時代は「ク
ナナウ社」と表記され当時パイワン族最大の集落、約五十年前に政府指導で
廃村、現在の平野部に移村してきたものです(編集部註:パイワン語でク
ジャジャウKuljaljau)。
以前八通関古道を紹介した際若干触れましたが、牡丹社事件(1871年、明治
4年)の後、日本の台湾領有の企図を牽制する為に清朝政府が積極的な台湾
経営に乗り出し「開山撫番」(山を開き原住民族を撫順する)の名のもとに
北部、中部、南部に各々西海岸から東海岸に至る横断道路を開鑿しました
が、その南部側に開鑿されたのがこの崑崙拗古道です。開鑿当初は高雄市の
東隣、現在の鳳山市を起点に衣丁山の南側を巻きながら東海岸、現在の台東
県太麻里郷に至り、更に北上して台東縦谷に抜ける全長105キロ。1875年
(明治8年)、八通関古道よりも一年早く開通したとされています。元々こ
の付近は中央山脈を境に西側のパイワン族と東側のプユマ族との間で姻戚関
係があり婚姻道が横断していたのですが、この古道開鑿の際はこの婚姻道を
ベースにした為、原住民族が積極的に開鑿に協力したと謂われ台湾古道史上
特異なケースとされています。
元来の古道の東西両端は既に都市の中に埋没していますから、現在古道とし
て残っている部分は屏東県来義郷と台東県田太麻里郷の山間部を結ぶ約40キ
ロ、但し、林務局はその「国家歩道系統」の中でこの古道を「古排湾族歩道
系統」に含めていますが、実際は一部を除き登山道としては整備されてはい
ませんので一般の人が歩き通すのは困難な状態にあります。この古道に関し
ては、従って、一般の人には局部的にしか歩かれておらず、西側では衣丁山
への登山道として、又、旧古楼村、即ちクナナウ社遺構探訪という形で崑崙
拗古道が語られることが多いのが現状です。更に、クナナウ社には高砂義勇
兵の墓が現存しており、現代の台湾の人にとっては崑崙拗古道=クナナウ社
遺構=高砂義勇兵の墓=悲哀というコンテクストの中で理解されるのが一般
的です。
台湾でも最近マウンテン・バイクでのツーリングがますます盛んになり、私
がこれまで紹介した古道にも自転車で乗り込んでくるハイカーが増えてきま
した。台湾南部の場合、それらハイカーのコースとなるのは産業道路とか林
道になり勢い旧原住民族部落探訪の機会にもなります。その中で人気のある
のが、来義郷南隣の屏東県春日郷の(老)七佳(チカタン社)へ至る産業道
路と(旧)力里(リキリキ社)を経て大漢山(標高1,688メートル)に至る
林道ですが、クナナウ社−チカタン社−リキリキ社間は古パイワン族歩道の
名の通り古来から連絡道があり、クナナウ社から崑崙拗古道を逸れて南下し
リキリキ社に至る連絡道は後日紹介する予定にしている浸水営古道に行き当
ります。このクナナウ社から南下する連絡線も一括りにして崑崙拗古道に含
めて語られているケースもあります。
台湾原住民族研究に携わっている方にはよく知られた、台北の南天書局から
出版されている「台湾原住民族映像:浅井恵倫教授撮影集」(笠原政治、楊
南郡等編、1995年)に収録された日本時代の原住民族の写真の殆どが、クナ
ナウ、チカタン、リキリキ、後に紹介するライの各社で撮影されたものであ
ることも私がこの古道と周辺のパイワン族の旧集落に興味を持った理由で
す。
<ライ社の「戦歿勇士之墓」>
現在の崑崙拗古道の西側起点は屏東県来義郷の来義林道でこの林道そのもの
は日本時代の理番道路(原住民警備道)だったものです。全長13キロ程でそ
の終点が登山口になります。この林道の途中に(旧)来義村(ライ社)の遺
構がありますが、現在台湾では殆ど紹介されることがありません。私も来義
村の現村長洪嘉明氏に案内して貰い初めてその存在を知りました。
南台湾の原住民族部落の場合、戦後何らかの理由に拠り平野部に移遷した
(或いは移遷された)場合、大概は途轍もなく遠方に移り住まざるを得ない
ケースが一般的です。但し、現在の来義村の場合は嘗て旧村落が存在した標
高400メートル程の高台の麓に降りてきただけですので祖先の地を直に仰ぎ
見れるという非常に幸運なケースと言えるのかもしれません。
この洪村長とクナナウ社に残る高砂義勇兵の墓のことについて話をしていた
際、ライ社にも同じものが在ると教えられ、それまでその類の紹介を目にし
たことがなかった為ひどく驚きました。最初はクナナウ社のものと混同して
いるのかなと思ったのですが、来義村案内のパンフレットを見せられ、そこ
に掲載された写真は確かにクナナウ社のものと明らかに異なることが判りま
した。以前は日本人をその墓まで案内したことがあるとおっしゃっていまし
たが、その旧部落との連絡道は最近殆ど歩かれておらず、私自身二度足を踏
み入れましたが、藪の深さに圧倒され途中で断念、その後梅雨の影響で川が
増水して渡渉出来ないというよなこともあり、現地に足を運ぶこと五回目に
して漸く辿り付きました。
この墓は旧村の最下端に位置し、台湾では写真でもよく紹介されるクナナウ
社の高砂義勇兵の墓が高さ二メートル弱、幅六十センチ強、パイワン族特有
の一枚岩板の表面に「戦歿勇士之墓」と大書きされているのみであるのに対
し、ライ社のものは自然石とコンクリートを組み合わせ縦、横、高さ、各々
一メートル程度の基部に角柱の墓標を持つ立派な墓で、墓柱の三面に文字が
刻まれています。正面にクナナウ社と全く同じく「戦歿勇士之墓」、裏面に
「昭和十九年十二月二十六日」の建立日、建立者たる日本人警部の氏名と
「ライ社自助会一同」、正面左側面に「第一回、第二回、第五回義勇隊」と
して出征兵士合計六名の氏名(内一名の氏名は剥落)が刻まれています。
来義林道終点の登山口からは凡そ四時間ぐらいで崑崙拗古道とクナナウ社へ
の支線の分岐に辿りつきそこからクナナウ社までは約一時間、登山口から最
初の取り付きを除けば常時道幅が二メートル前後あるよく踏み歩かれた古道
を辿るとそのまま集落遺構に導かれます。村の入り口から僅かばかり入った
右側には嘗て駐在所、保健所等があったと最近の台湾の資料には書かれてい
ますが、官舎だったのか住居だったのか判然としない石板を壁にした建物跡
が僅かに残るだけです。これら建物の遺構を見下ろすような形で高砂義勇兵
の墓は建てられています。写真で見た際には随分小さな墓を想像していたの
ですが、実物の大きさ(前述)に驚かされました。村自体は入り口から左側
に下った斜面にあるようなのですが草深く住居跡は外からは認められません
でした。建物の遺構を右側に見ながら更に中に入るとだだっ広い平坦地に
なっていますが明らかに学校があった場所です。このまま古道を辿っていく
とチカタン社に抜けていけるのですがこの連絡道は今は殆ど歩かれていませ
ん。
<チカタン社−現存するパイワン族集落最大の伝統集落>
チカタン社は戦後少なくとも二度移村しており、元々のチカタン社は(老)
七佳、最初の移村の地が(旧)七佳、二度目の移村の地、即ち現在の地が七
佳と呼び分けられており、すべて屏東県春日郷に属しています。老七佳まで
は旧七佳との間の連絡道(登山道)を歩く方法もありますが、今は産業道路
が付けられている為アクセスが非常に便利になっています。チカタン社は現
存するパイワン族集落最大の遺構で現在四十戸強が残り、いまだに十人程度
が起居している為保存状態は非常に良好です。台湾南部でよく知られた原住
民族集落遺構としてはルカイ族発祥の地と謂われる屏東県霧台郷の(旧)好
茶(日本時代表記はコツボアン社、或いはコツボアガン等々。編集部註:ル
カイ語でクツァプンガヌKuzapungane)があり、原住民族集落遺構としては
唯一台湾の国家史跡に指定されてはいますが、老七佳の方が「世界遺産へ登
録しよう」という勇ましい声も上がっているくらい集落遺構としては完全で
す。
<北大武山の高砂義勇隊顕彰碑−大武祠>
今回ライ社とクナナウ社の二つの高砂義勇兵の墓標に触れましたが、南台湾
で恐らく最も特異な高砂義勇兵関連遺址は、中央山脈最南部の三千メートル
峰、台湾五嶽の一つ、北大武山(台湾百岳92号:標高3,092メートル)の頂
上稜線上に残る大武祠だと思います。
この山は高屏平野の東端から急激に立ち上がっていますので天気が良ければ
高雄市からでもよく見えます。北大武山の山頂に立ち南側を望むと右手に台
湾海峡、左手に太平洋、正面は台湾最南端の恒春半島までがすべて見渡せま
す。背中の北側には中央山脈が綿々と連なるのですが、地上に在りながら台
湾が島であることを強烈に感じ取れる稀有な場所です。私自身は二度このパ
イワン族・ルカイ族の聖山に登りましたが、その際はこの大武祠が実は高砂
義勇兵の顕彰碑であることを知りませんでした。現在残っているのは顕彰碑
の一部、木製鳥居、コンクリート製の祠だけですが、ここまで辿りつくのが
非常に難儀で顕彰碑の文字を追う気力も無く、碑文の最後に「昭和十九年三
月十五日、高雄州知事…」の文字を認め、戦勝祈願の為の建造物だと勝手に
理解していました。
六十年の風雪(南台湾でも三千メートルを越えると積雪を見ることがありま
す)に耐えたこの鳥居は台湾最高所に現存する鳥居遺構ということになると
思いますが、写真を取りながらこの鳥居の向きが気になっていました。鳥居
の向きに関しては或る一定の法則なり掟があるはずだと思い少し調べてみた
のですが、必ず或る「意味」はあるようです。大武祠のすべての遺構が南向
きになっているのに合点がいったのはこれが高砂義勇兵の顕彰碑であること
を知った後でした。
西豊穣 台湾紀行古道シリーズ バックナンバー
2005/04/26【台湾紀行】八通関古道
http://www.emaga.com/bn/?2005040084791224010815.3407
2005/02/25【台湾紀行】霞喀羅古道(石鹿古道)
http://www.emaga.com/bn/?2005020083026676007324.3407
2005/01/06【台湾紀行】能高越嶺古道
http://www.emaga.com/bn/?2005010010046551008909.3407
『台湾の声』http://www.emaga.com/info/3407.html
『台湾の声』バックナンバー http://taj.taiwan.ne.jp/koe/
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