このマガジンの他のバックナンバーを見る
今日発行されたマガジンを見る
昨日発行されたマガジンを見る


購読は無料です。購読するには貴方のメールアドレスを入力して下さい。


件名:「台湾の声」【台湾紀行】霞喀羅古道(石鹿古道)【差替え版】

配信作業上の手違いがありましたので、訂正のうえ再度お送りいたします(編
集部)。


【台湾紀行】霞喀羅古道(石鹿古道)

                  西 豊穣(高雄在住)

二回目として紹介する霞喀羅古道(シヤカロ古道、石鹿古道)は現在、登山愛
好家に限らず最も人口に膾炙した古道の一つになっています。現在「霞喀羅国
家歩道」として整備・管理されており、歩道の西側入口は新竹県五峰郷の清泉
温泉(日本時代の井上温泉:戦後蒋介石が張学良を蟄居させていた地としても
有名)から延びる石鹿林道終点、東側は同県石尖郷の秀巒温泉(日本時代の控
渓)から入る養老が入口になっており、大凡の位置としては雪山山脈の西側に
なります。これら起点へのアクセスは高速道路3号線竹東インターから降りるの
が便利です。現在の歩道の両側の入口の駐車場は休日となるとハイカーが乗り
入れた車で非常な混雑を呈するという新聞記事を見たことがあります。実際私
が歩いた時も、百人を越すのではないかと思われる団体ハイカーに出くわし驚
いたものです。この古道に入って来る人々の服装、装備は様々で一般の観光地
に行くような格好をした人々も見掛けますが、実際の歩道の全長は24キロあり
ますので、歩き通すのに丸一日必要です。私の場合テント持参で二日掛けて往
復しました。但し、どちら側から入っても出口の方に車を準備していて貰えれ
ば、台北辺りからであれば日帰りは可能です。24キロを歩き通すハイカーは通
常石鹿林道側入口から入り養老側に抜けます。日本時代の警備道の特徴を有し
た等高線に沿った道ですが、だらだら養老側に下っているからです。一般の観
光客は逆に養老側から入り途中の白石吊橋との間を往復するのが多いようで
す。お目当ては、この吊橋と途中の紅葉(楓)です。それでも片道10キロ近く
我慢しなければなりません。

台湾人に何故人気があるのかと云うと、アクセスの簡便さと歩き安さも然るこ
とながらこの「霞喀羅」という響きに惹かれる部分もあるのではないかと想像
しています。台湾人にはこれが原住民語の北京語音表記であることはすぐに判
ります。日本時代、原住民の部族名(蕃)、集落(社)はすべて原住民語音を
カタカナ表記していました。戦後はこれ等はそのまま漢音表記されるか、別な
地名に書き代えられたわけですが、今の漢字表記を見て当時どうカタカナ表記
されていたかを想像するのは北京語発音に慣れない日本人には難しいです。そ
れで当時作成された地図に頼るのが一番です。今でも日本時代に作成された地
図はその複製を購入することは出来ますし、ネット上でも無料で公開されてい
ます(例:http://www.map.com.tw/imageMap/sunriver_map.asp)。このネット
上で公開されている大正12年台湾総督府警務局作成の30万分の1の地図に依る
と、「霞喀羅」は「シヤカロ」、或いは「シヤカロー」とカタカナ表記されて
いたことが判ります。更に、現在の古道に沿った部分を見ると、西側から「上
坪前山蕃」、「上坪後山蕃」、「キナジー蕃」の文字がありますが、前者二つ
のタイヤル(泰雅)族シヤカロ群と同キナジー群との元々は交易・婚姻道で
あったものが、これ等タイヤル族との抗争・討伐・警備の為に整備、拡張さ
れ、最終的に「シヤカロ-サカヤチン警備道路」として完成されたのが霞喀羅古
道で、当時は全長60キロあったそうです。因みに「サカヤチン」の現在の北京
語音表記は「薩克亜金」です。こう書いて来ると恰もこの付近の警備道は一本
だけだったような印象を与えますが、実際はこの地域の警備道拡張の歴史と警
備道網は複雑で現在でも同地域の他の警備道も歩けるのですが、最も歩き易い
「シヤカロ-サカヤチン警備道路」が林務局が力をいれて整備している霞喀羅古
道です。

この古道の特徴は、当時の全台湾の原住民警備道中で最も駐在所の配置密度が
高かったことです。現在の古道の両入口に林務局が設置した案内板に依ると、
この古道上の当時の駐在所跡は、西側からシヤカロ(現、石鹿。但し、これは
現在の歩道入口に入る前の車道脇にあり、戦後立て替えられその後廃棄された
建物が現存)、田村台、青山、馬鞍、栗園の4駐在所しかありませんが、台湾側
の最近の山行記録等を見ると、田村台、高橋、松下、楢山(戦後、青山)、朝
日、石楠、サカヤチン(同、白石)、見返、武神、馬鞍、テラッカス(同、栗
園)、ハガ、養老、に嘗て駐在所が存在したとあります。これでいくと24キロ
中に10箇所以上になりますから約2キロ以内の間隔で配置されていたことになり
ます。但し、他の資料ではこれより少ない駐在所数を上げて配置間隔を4キロと
しているものもあります。当時の警備道上の駐在所配置の間隔に関しては何等
かの基準があったのかもしれませんが、現実的には原住民集落の場所・人口と
地勢が考慮されるのは当然として、監視すべき原住民が「従順」かどうかとい
う度合いも考慮されたはずです。その意味ではこの警備道上沿線のタイヤル族
の抵抗は特に激しかったことが判ります。事実、大正6年のシヤカロ事件以降台
湾総督府はこの地域に相当数の軍隊・警官を投入、討伐に乗り出し最終的にこ
の地域のタイヤル族を降伏させるのに11年を要したそうです。日本の台湾統治
が50年、この間台湾全土の原住民を最終的に制圧・降伏させるのに40年を費や
したと云われています。このような長きに渡る原住民との抗争を最終局面に於
いて高砂義勇兵として「昇華」させていったというのが支配者たる日本人の側
から見た原住民統治の歴史的な構図と言えるかもしれません。

現在の古道上には立派な道標が適宜設置されハイカーの便に供されています
が、両入口の案内板に記載された駐在所跡には道標・表示板が一切ありませ
ん。代わりに有志の方が小さな金属板を樹木に打ち付けて表示してあるのです
が、田村台(但し、銘板には「高橋」とあるが誤記とのこと)と馬鞍のみで、
外の駐在所跡(或いは、跡と思しきもの)が当時どの駐在所に相当していたか
は想像するしかありません。サカヤチン駐在所は戦後は建て直され白石駐在所
として暫く機能していましたが今は廃棄、その建物がそっくり残っていますの
で日本時代の様子を想像する便となります。現在の歩道上にこのように建築物
として残っている駐在所跡はここ白石一箇所だけです。これら前述三箇所以外
に私自身が駐在所跡と確認出来た場所は後四箇所しかありませんでした。白石
駐在所跡を除き、西側入口を入ってすぐの場所にある田村台駐在所跡が最も保
存状態がよく立派な石垣が残っています。タイヤル族の聖山「大覇尖山」(台
湾百岳27号、標高3,492m:タイヤル族はこの山から生まれたと信じている)は
台湾を代表する山岳の一つで、読者の中にも台北-高雄間の飛行機からでも容易
に識別出来る特異な四角錐の山頂を持ったこの山の写真を見たことがある方も
多いかと思います。現在はこの古道より若干北側を走る大鹿林道を辿るのがこ
の山へのアプローチとして一般的なのですが、日本時代はこのシヤカロ警備道
が大覇尖山への登山道として使われており、日本人に依る初登もこの警備道を
辿りました。警備道上に配置された駐在所の中には登山者に宿泊の提供、日用
品の販売を担っていたものもあったそうです。

古道上唯一大きく標高が変わる場所が、白石駐在所跡と白石吊橋の間で、西側
入口から入ると大きな下りになります。この吊橋はサカヤチン川(「川」の中
国語は「渓」で、現在は従って薩克亜金渓)に掛かっていますが、その高度は
圧巻、下を流れる渓流と周りの樹木も非常に見事。日本時代には山間部には数
多くの吊橋が掛けられ、今でも現役のものもありますが、この吊橋も日本時代
に掛けられ、現在のものは約30年前に架け替えられたものです。その後も補修
が繰り返されており保存状態は非常に良好です。橋の両端のつい最近になり塗
り直されたと思われる白塗りの橋梁には、「白石吊橋」「建於大正十年」と大
書きされた木製の銘板が埋め込まれています。台湾では嘗ての神社跡等とかに
残る鳥居・石柱・石碑等に刻まれた「明治」「大正」「昭和」の文字を今でも
目にする機会は多いのですが、このように最近になり改築・改修された建造物
に堂々と日本時代の年号を表記するのは非常に珍しい例です。嘗ては原住民の
生活道であった古道であれ、中国清朝時に開鑿された古道であれ、更に日本統
治時に警備道路として開鑿された古道であれ、ひとくくりに「国家歩道」とい
う台湾の国家歴史遺産として取り扱い、これら人文と美しい自然の両面を等し
く啓蒙するポリシーを打ち出している林務局の意気込みの一つの顕れだと思い
ます。



『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html

『日本之声』http://groups.yahoo.com/group/nihonnokoe  (Big5漢文)


E-Magazine協賛企業


無料メールマガジン、メルマガ発行ならE-Magazine
パーティー・イベント情報サイト!パーティフル♪