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件名:「台湾の声」【台湾紀行】能高越嶺古道

【台湾紀行】能高越嶺古道


                  西豊穣

私が台湾の「古道」を今後読者の皆さんに紹介したい理由は二つ有ります。一つは
台湾の特に日本時代の歴史をより深く識る為の便(よすが)と成り得る事、もう一
つは台湾の自然の壮麗さを直接享受出来る機会に恵まれる事です。更に、前者に関
しては現在の原住民の生活状況、延いては原住民の置かれている社会的な状況をも
垣間見る機会となり得るし、後者に関しては現在の台湾の自然保護活動、観光行政
に思い至る機会とも成り得るとも考えているからです。

現在「古道」は台湾では(或いは、で「も」)ちょっとしたブームです。これは台
湾の急速な民主化に伴い台湾の真の歴史を知ろうという機運が大きく与っているで
あろうし、無論、健康ブームも与っているはずです。古道をテーマにした出版物も
増えて来ています。ブームという限りに於いてはそれに便乗しようとする人は当然
出てくるわけで、或る観光地ではどう考えても似非(えせ)古道ではないかと思わ
れるものまで出現している有様です。

一般的に台湾で古道と呼ばれているものは大きく三つに分けられと言われていま
す。まず、台湾先住民たる原住民部族間の交易・婚姻道、次が主に清朝時代に建設
された「開山撫順道」に代表される道路、更に日本時代の所謂「理番道路」です。
現在古道と呼ばれているものをこれら三つに厳密に分けるのは難しいと言われるの
は、日本時代に前者二形態の道路網を、原住民の抵抗、蜂起を押さえる可く理番道
路として整備、拡張していった経緯があるからです。従って、理番道路が現在の台
湾の古道の最終形態ということになります。戦後はこれらの道路はそのまま自動車
道として整備されていったものが多く、他方、経済的に不要とされたものは廃棄さ
れるか、或いは林道、産業道路、登山道として生き残り現在尚利用されています。
但し、林道、産業道路に関しては外材の進出に伴う台湾林業の衰退により多くが急
速な勢いで廃棄の憂き目に遭っているのが現状です。以上の背景に因り、台湾古道
の歴史は浅いものについては精々六、七十年ということになります。尚、私は前の
メルマガの中で理「蕃」という字を使いましたが、これは当時の原住民に対する蔑
称である「蕃人」の字をそのまま使ったのものです。しかし、現在の台湾の出版物
は「番」の字になっていますので今回から代えました。又、「理番」という呼称は
あくまで当時の支配者であった日本人側のものなので、今後は現在の台湾で使われ
ている「警備道」と呼ぶのが適当かと思います。

最初に紹介する能高越嶺古道は現在台湾で最も整備された古道で、「国家歴史歩
道」に指定されています。参考までに、台湾政府(林務局)は「高山歩道」(登山
道と同義:中央山脈と雪山山脈を縦断)、「歴史歩道」(古道に同義)、「森林歩
道」(一部は登山対象)の三種の「国家歩道」を指定しています。因みに、「越
嶺」とは峠越えの事であり、峠とは玉山を盟主とする中央山脈の事です。当時は十
四本もの越嶺警備道があったと言われています。能高越嶺警備道はその一つで、能
高山(標高3,262メートル、台湾百岳58号)と南華山(標高3,184メートル、台湾百
岳75号)との間の鞍部(峠の意:標高約2,800メートル)を貫き、当時、東側は花蓮
市と西側は南投県霧社を繋いでいた警備道で、全長80キロ、この間二十箇所に駐在
所が置かれていたそうです。日本の第二高峰は南アルプスの北岳で標高が3,200メー
トル弱ですから、これら四つの数字を並べただけでも当時の原住民警備道、並びに
駐在所が置かれていた環境が想像出来るかと思います。現在歴史歩道として残され
ているのは峠の東側10キロ、西側約15キロ、全長約25キロ、能高山等の登山を目的
としなければ二日で歩き通せる長さです。但し、私自身は東側には下りたことが無
いので、以下は高雄市、台北市等台湾の西側に住んでいる方に簡便な西側からの紹
介が中心となります。

読者の皆さん、特に現在台湾に住んでいる方々に是非この古道を歩いて頂きたい理
由として以下の三つが挙げられます:

高低差が少なく非常に歩き安く危険な場所が少ない事、従って、普通の体力があれ
ば誰でも歩ける事が最初の理由です。「最も整備され」ているという意味は、この
古道は現在台湾電力と林務局の共同管理になっており、日常の管理はバイクの移動
で行われている為です。この為、最近はマウンテン・バイクで入って来るハイカー
も増えてきました。道路幅は約二メートル、当時の警備道の中でも最も寛いと言わ
れています。又、高低差が少ないという意味は、西側登山口(標高約2,000メート
ル)と峠の標高差が800メートル、その間が約15キロありますから、古道はほぼ等高
線に沿って走っており、殆ど急坂が無いということです。実はこの道幅が寛く、等
高線に沿って道が造られているというのは当時の警備道の特徴だと言われていま
す。理由は、原住民が一旦蜂起等の挙に出た際、銃火器、並びに鎮圧隊を迅速に運
搬・移動させられるからです。更に、何故台湾電力かというと、この古道に沿って
中央山脈を横断し台湾の東西を結ぶ送電線が走っているからです。この送電線の建
設は日本時代にも計画があったそうですが、太平洋戦争で頓挫、戦後国民党がこの
計画を引き続く形で完成させ、その際この古道が大いに活用されたといいます。こ
れは一大国家事業で「電力の万里の長城」と喧伝されただけあり、確かに台湾の屋
根たる中央山脈を越えて送電線が走っている様は圧巻、この古道上の見ものの一つ
です。この事業を記念する大きな碑が峠に立てられており、一般のハイカーはこの
碑が目標となります。尚、西側の古道の入り口である屯原(日本時代の「トンバ
ラ」)までは一般の乗用車で入れるアクセスの簡便さも重宝です。

霧社事件縁(ゆかり)の地であり、日本時代の遺構が残っている事が二番目の理由
です。古道自体は無論日本時代の遺構の一つですが、この能高越嶺道も含め警備道
をベースにした現在の古道上には当時設置された駐在所の遺構が何等かの形で残っ
ています。但し、当時の建物そのものが残っているケースは非常に少なく、大概は
ちょっとした平坦地になっているとか、石垣が残っていたりとかで当時人が生活し
ていた事が想像出来るのみというのが普通です。それらは地図上には「遺址」(遺
跡の意味)として今でも記載される場合がありますが、当時の駐在所跡をすべて網
羅しているわけでもなく、又、現場に何等かの表記・表示が有る訳でもありませ
ん。中には有志の方が樹木上にプラスチック、金属のプレート等で表示してくれて
いるケースもありますが例外です。能高越嶺道の場合、現在古道として残されてい
る沿道にも相当数の駐在所があったらしいですが、ハイカーが確認出来るのは、西
側では台湾電力の雲海保線所(「保線所」とは送電線管理所の意:古道入り口から
約5キロで当時の尾上駐在所)と天池保線所(古道入り口から約13キロで当時の能高
駐在所)のみです。但し、これらの保線所の建物も既に建て替えられており、当時
の具体的遺構は、前者の場合、保線所裏の貯水槽、後者の場合、銃火器貯蔵庫(と
思われる)のみになっています。又、屯原と雲海保線所の間に「富士見」、両保線
所間に「松原」と呼ばれた所があり、恐らく駐在所があったはずですが場所を確認
出来ず、代わりに松原付近と思われる所に炭焼き窯跡(松原木炭窯遺址)が残って
いるのですが注意しないと見落としてしまいます。一方、東側の檜林保線所は当時
の駐在所(東能高駐在所)の建物を今でも使っているという稀なケースです。霧社
事件の勃発とその後の鎮圧戦の舞台となった場所そのものは現在残されている古道
上ではなく、現在の霧社一帯を中心とした地域と思われますが、現在の天池保線所
である当時の能高駐在所は事件後、最も東側に鎮圧部隊が配備された場所です。

三番目の理由として3,000メートル級台湾高山を体験出来る事が挙げられます。古道
を暫く歩き出すと能高山がすぐに見えて来ます。能高山は日本時代は「三高」(新
高山:現玉山、次高山:現雪山)の一つに数えられ、雲海保線所(歩道入り口から
約1時間半)に辿り着くと雄大な全山容が眼前に広がります。更に天池保線所(歩道
入り口から約6時間)まで登り詰めると峻厳な山容が圧倒的な勢いで迫って来ます。
そこから頑張って半時間ぐらい掛けて天池(今は乾燥した池塘)まで上がると、そ
こには中央山脈の更に北側へ連なる台湾で一番美しいと言われる大草原(笹)が広
がっています。この低い笹から成る草原は台湾3,000メートル級高山の一大特徴で
す。登山の経験が無くても天池までは上がれるし、峠までは天池保線所から平坦な
道を3キロ弱歩くだけです。

霧社自体もう既に相当な高所に在ります。但し、雲海保線所、天池保線所まで来る
と霧社の街は遥か雲のかなたの下界であることが判ります。当時、能高駐在所から
能高郡役所の分室があった霧社までは毎日報告書の提出が義務付けられていたそう
です。毎日報告書を携え霧社との間を実際往復していたのは原住民であり、警備道
上に設けられた駐在所員の食料等の生活物資の運搬も原住民によって賄われていま
した。よくぞこんな所まで道を付け駐在所を置いた先人たる当時の日本人の艱難辛
苦は、私が前に書いたように、総督府の鬼気迫る原住民支配の裏返しですが、実際
警備道造成、整備に徴集・使役という形で携ったのは原住民でした。自分達を管
理・支配する道具を自分達自身の手で作らされていた当時の原住民の苦しみ、悲し
みを想像するのは支配者たる日本人には非常に難しいと思います。平坦で寛い快適
な今は国家歩道たる古道の裏にはそういう歴史が有ります。問題は当時も今も原住
民の置かれた社会的環境というのは余り変わっていなにのではないか?ということ
です。読者の中には霧社まで足を延ばされたことがある方も多いかと思います。も
し今後霧社方面へ行かれる機会があれば是非この古道まで足を踏み入れて欲しいと
思います。霧社から中横を逸れて古道入口までは約20キロぐらいです。体力に自信
が無ければ雲海保線所までだけ(往復約三時間)でも十分に古道歩きを満喫出来る
し、台湾の主要都市から早朝に出発すれば日帰りが可能です。唯一注意する必要が
あるのは、「歩道」と雖も現代人にとっては今や立派な「登山道」(東京-山梨間の
旧青梅街道の大菩薩峠をイメージして下さい)であり、予め入山証を取得するよう
義務付けられていることです。

              (12/30/2004)



『台湾の声』  http://www.emaga.com/info/3407.html

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